お乾燥わかめのはなし

ボカロPやってるものです。

"グロい“現代文の話

 国語の授業とは、総じて「グロい」ものである。音楽を日頃嗜む者として、その暴力性には時として身震いしてしまうのである。

 念の為断っておくが、私のこれから言うことは何も学問としての文学を否定するものではない。学生という身分ゆえに与えられる「受取人(読者)」としての体験を「創作人(作者)」としての活動に落とし込もうという意図で、感想をまとめたものである。

 人が文章を書く時、必ずその人の人柄や経験が文章に反映される。それは体験談のように作者が意図して組み込むものもあれば、無意識的に滲み出るものもある。それは、歌の詩を書く場面でも同じである。つまるところ、文章はある意味その人自身を切り取って作られているのである。

 しかし、教師が学生に文章の解釈を教えていく際には、これと逆の作業が行われる。まず、純粋に文章の中身に議論し、その後にはそれを書いた人物の背景へと迫っていく。その人の人生と書かれた文章とを照らし合わせ、より深い理解を学生に得てもらうためだ。このような逆方向の拡張は作品という枠組みを破壊し、作者の知られざる一面を暴いていく。このプロセスに、私は創作者として「グロさ」を感じるのである。

 それは、作品を通して自分の知られたくない面を知られてしまうのではないかという恐怖に由来している。私が意図できるのは、単純に「作品」だけを見られた際に鑑賞者に与える情報だけであり、見られる対象が「複数の作品群」、「私の実績」、「私の日常」と移り変わり拡張されるごとに、私は鑑賞者の受け取る情報を操作できなくなっていく。

 授業においては、正しい解釈というものが存在している。それと同じように、私の意図しない範囲の情報から、私の作品や私自身に正しい解釈が付けられていることは恐ろしい。私の歌詞は分かりにくいと怒られてしまったことがある。けれどそれは、できるだけ難解な文脈を作り上げることで、作品と私とをできるだけ乖離させるための手段なのである。もし、私がある時とても素直な歌詞(直球なラブソングとか)を書いたのならば、それは残念ながら私の素直な思いではないだろう。むしろ、素直に見えるように私が意図して書いた歌詞である。ほんとうに私が自分の体験を反映させて書いた歌詞は、身近な人でさえそれが私の実体験だとはわかってくれないし、たとえば「恋愛」というジャンルすら認知されないこともある。ただ、私は一方で、その事実に安心している。

 しかし、そんな難解さで誤魔化そうとしている歌詞は決して人の心を打たないだろうということも、同時に知っている。どうしても作品を通して自分をら見られることへの恐ろしさは拭えないかもしれない。それでも、誰一人として理解できないような作品ではなく、私の作った枠組みを壊さないように丁寧に丁寧に広げてくれるような誰かには、少し自分のことを分かってもらえるような作品を作りたい。